2017年2月23日木曜日

教育勅語は天皇から臣民への指令という文脈ゆえ全てダメ。

 > 稲田氏は「教育勅語の中の親孝行とかは良い面だ。文科省が言う、丸覚えさせることに問題があるということはどうなのかと思う。どういう教育をするかは教育機関の自由だ」と答えた。

教育勅語を持ち上げる人たちは大抵これを言う。

親孝行はどんな場合でも良いことなのだろうか。支配的、暴力的に振る舞う親を想定してみれば、その浅はかさがわかるはずだ。少なくとも「互いを尊重する」といったような公共的に妥当な価値とは思えない。

どういう教育をするかは、ある程度は私学の自由ではある。しかし、公的に認可を求める以上、少なくとも特定の価値感に基づく部分が主体になってはいけない。これはどういうことかというと、キリスト教系の学校を例にとればわかりやすい。例えば、青山学院大学はキリスト教概論が必修だ。しかし、それはあくまでも宗教学の範囲であり、信仰的価値や信仰の強制はない。思想信条の自由は、政府が国民に保障しなければならない権利である。政府が認める学校教育が特定の価値感を強制して良いはずがない。

さらに決定的なのは教育勅語の文脈だ。「勅語」とは、天皇が発信人で臣民を名宛人とした事実上の指令である。つまり、教育勅語にある「父母ニ孝ニ」とは、親孝行せよという天皇から臣民への指令である。親孝行とそれだけ聞けば、なるほど良いことのように思えるかもしれない。しかし、前後には天皇からの指令という文脈がある。現在の日本の主権者は国民であり、価値感そのものの指令を何者かに受ける言われなどない。

文脈とは前提条件である。教育勅語にある親孝行も夫婦仲も、全て天皇から臣民への指令という前提条件のもとに語られている。前提条件がダメであれば、いかなる文言が書かれていようとも議論する意味はない。

教育勅語を掲げる人はちゃんとフルテキストをあげて論じていただきたい。文脈すなわち前提条件を隠して一部分だけを掲げて良いと訴えるのは姑息である。冒頭にあげた稲田防衛相の発言もまた国民を愚弄した姑息な発言だと思う。


稲田氏、教育勅語の丸覚えに理解示す 森友学園の幼稚園

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